Column

18.独り言的な


ちょっと思いついたことをたらたら書いてみようと思ったので・・・
コラムみたいに「まとめ」ません、文体、構成考えません、
思いつきなので、これから増、減ったり、訂正、改良、改悪・・・ あります

大切なのは、「いつどこで音がなっているか」ということ。
音の3原色ともいわれる「音量」、「音色」、「音高」はあまり問題でない。
声の小さくしか出ない人、大きい人、高い人、低い人、太い人、細い人、
本能的には誰だって人に危険や安全などを音で伝える手立てを持っているはず。

その3原色のみを体系化、理論化すれば
「じょうず」、「へた」の区別(時には差別)の道具になるが、
そこには「なにが伝わるか」という事の存在はない。

「下手でも伝わる」、「上手でも無意味」の人はやはりいるわけで、
伝わるというのはどうやら本能的なことではないかと思う。
何を経験、感動、絶望などしたのかをそのまま伝えられる人、
それが音楽の名手だということになる。

技術は関係ない、むしろ技術に感動した人はその旨伝えればよいと思うが音楽ではない。

私は若いころはとにかく技の追求に明け暮れていたが・・・
自分の進退にもかかわるか・・・

左足ルンバクラーべなど始めて25年ぐらいたって、
ようやく実用可能かと思う昨今、

複雑な動き、四肢独立をさせるために、組み立てて実行というプロセスを、
体の動きでも思考の中でもしばらくやっていたのだが(いわゆる順列組み合わせ練習)、
「つまる」、「よれる」、「つられる」、「とまる」がなかなか解消されない。
「場数」、「開き直り」で乗り越えようかとも思ったがプライドが許さない(冗談)。

思考を変えてみた、
人は歩く(同じテンポ持続状態)、
人としゃべりながら歩く(同じテンポ持続状態、別のフレーズのやり取りをテンポに関係なく)
しかもそのしゃべりの中で別のテンポも歌えるし、「笑い(これもまた別のテンポ)」
「くしゃみ」、「あくび」が起ころうが足はテンポをキープしている。

この状態と同じならさらに広がりそうだと思い。
体の感覚、動かす意識を「無!」にするようにした。
座禅のような「無!」ではなく、すべての動きは自然体が基本。
歩く、走る、座る、貧乏ゆすりなど日常使う動作のみですべて行えれば良い。
「野口体操」とかずいぶん参考にさせていただいた。

テンポキープで悩んでいる人、
とにかく歩けばよいのです。

細かいフィンガーコントロールができないと思っている人、
毎日「歯ブラシ」しますよね、「お箸」使いますよね。
結構速く動いています。

腕の振りが硬いと思っている人、
マラソンです。
2時間以上動いているのに腕が疲れたといっている選手は見たことありません。

そのふにゃふにゃの腕の先の握っているでもなく開いているでもない無感覚に近い
手の中にスティック置いておけば、モーラー(内回り)とフリーグリップできてます。
ただしスティック、スティックを持っていることを意識してしまったらたぶんできてません。

自然体が基本
普段しゃべるように音楽したら楽しそうでないですか

自分を追い込んで、作り込んで、発表して
その達成感で満足というのはどうなんでしょう・・・

同じ練習なら、何を伝えられるか、ああでもない、こうでもない、こうしたらおもしろいか・・・
というプロセスを楽しみ、ついでに本番のような感覚のほうがよいのでは。

さて

正確なパルス?
状態によって感じる速さは違うし、

絶えず変化し続ける。
人間には不可能、あきらめましょう。

安定と変化、人間はどちらも勝手な都合で要求する。

よい楽器、
未熟なものを未熟だといってくれる正直者。

よく鳴る楽器?
鳴らすかどうかは奏者の問題。

「ぬけがよくて太い」「しまっているのにやさしい」
などという表現にはもう飽きた。

奏法?
まず音、音楽、感覚。

音、奏法、姿勢
意識したらすでに音楽から離されている。

気合、集中、一生懸命、間違いではないとおもうが、
そういった状態であることしか聴き手に伝わらない。

アフリカの部族には自然体的奏法でない人がいない。

ヨーロッパ、北米の音楽以外には、
休符の概念がない、表拍、裏拍の概念がない。

日本は欧米音楽システムに洗脳されているに近い。
なぜ疑問を持たない?
もちろん、日本音楽のやり方にも疑問は持ったほうが良いのかもしれないが・・・
演奏者は欧米音楽の代用品か。

音楽は言語に近いはず、一人のみの存在では成り立たない、
何かしらのメッセージがあるはず、それが音に対する情熱。

音楽を格好よくすることに情熱を注ぐ、意味は?

他人の作品をなぞって売れた人たち、今度は自分たちが本物だと言い出しはじめた。

デジタル化されたモニターの音には未だ違和感を感じるが、慣れてきてしまった。

本番は自然とおもしろいことが起こる、奏者も聴き手もその時間に身をまかせ、
結果心地よい時間だったと思ってくれることを願う。

ジャズは云々かんぬんと意見している人をたまに見かける、
たとえばジスモンチやショスタコビッチにもビバップを演奏を要求するつもりなのか?
それをいうなら日本人がモーツァルトやる意味があるのか?

悲しみを表現する部分、ただ一緒に泣いていて本当に伝わるだろうか。
優れた役者はそんな安っぽいことをしていないとおもうのだが。

いつ死なされるかわからない中南米の奴隷たちは底抜けに明るく聞こえる音楽を作った。
(明らかに北米より中南米のほうが条件が酷い・・・)

とにかく取引の世の中、創造は無限のはずだが、その自由はない。

音楽上芸術上の意見のぶつかり合いこそ平和だと思う
もちろん排他、排外までいくとぶつかり合いでもなんでもないが
文化の発展には欠かせないのではないか

「世の中のせいだという人。」「世の中のおかげだという人。」
どちらも音楽をする動機にはならないだろう。
「何かおもしろいことを」という本能的感覚が音楽であり平和であってほしい。

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